こんにちは。「上田知樹の日々の出来事」です。
今回もよろしくお願いします。
今日は広島市に原子爆弾が投下された日ですね。第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年、8月6日午前8時15分にアメリカ軍が日本の広島市に対して原子爆弾が投下された日です。これは実戦で使われた世界最初の核兵器で、この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が被爆から2~4カ月以内に死亡したとされています。広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」とカナ表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多いとのこと。
8月6日は月曜で、当時は週末の休みは無く、朝は8時が勤務開始だったそうですね。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となったみたいです。
また建物疎開には、中学下級生(数千人)および一般市民の勤労奉仕隊(母親たち)や病気等の理由により徴兵されなかった男子等が参加したとのこと。動員は市内の他、近隣の農村からも行われたようです。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業ですね。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行ったようです。彼等は原爆の熱線を直接、大量に浴びることになったそう。
尋常小学校の上級生児童は昭和20年4月に行われた集団疎開で市を離れていた者が多かったようですが、下級生児童は市内に留まっていたとのことです。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていたみたいで、就学以前の幼児は自宅に留まっていたんだとか。
8月3日、4日と雨が降りましたが、5日以降は高気圧に覆われて天候は回復したそう。
8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の市民も多かったみたいです。この日、市街中心部では米の配給が行なわれ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだとのこと。
8月6日の朝の気温は26.7度、湿度80%、気圧1,018ヘクトパスカルだったとのこと。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8 - 9であったそうですが、薄雲であり視界は良好だったみたいです。7時9分の空襲警報で市民は一旦は防空壕に隠れたものの、7時31分には警報解除されたため、外へ出て一日の活動を開始していたようですね。
午前8時15分、やはり上田知樹も黙祷しました。
では今日はこのへんで。上田知樹でした。